森哲荘展 1998年

目の人

森哲荘展によせて

大野 新

 若いころ、といっても四十四歳になっていたが、東京の出版社から、『大野新詩集』という企画本をだしてもらったことがあった。
 印税までもらえる本というので、有頂天になっていたし、大いに論じ、飲んでいた。怖いもの知らずで、エッセイなども徹夜で書いていた。
 その頃上丹生の木彫りの里の何人かに出会った。森哲荘君(二十六歳)や山本紀康君(三十三歳)たちである。
 木彫りに励んでいたが、注文品を器用にこなすだけでは満ち足りない渇望が、目にも行動にも表れていた。。
 彼らは、上丹生の木彫りの里から、車で守山のわがぼろ家までのりつけてきて、ある時は馬刺しや鹿肉など持参してくれた。
 私は肺病あがりの、小さな印刷屋の職人で、何の権威もないのに夢想にふくれあがっているのがきにいられたのだろう。
 彼らは職人気質で陶芸でも木彫りでも、真贋を見抜くカンがあった。ただ、それを表現するときの言葉のニュアンスに、木彫りの里では、会えなかったものを私に見つけたのだろう。
 森哲荘君は、お父さんのすすめで、木彫家足らんとすれば、手の柔らかなうちにはじめるべきだと、中学校以上の学業を断念して、職人一途にやってきて、私と出会った時にはすでに独立していた。
 当時の森君で記憶に残っているのは、彦根の道端で、風呂敷から取り出して見せてくれた水彩の自画像である。もう午後であったから、市催の美術展からの搬出の際だったかもしれない。
 とくにその眼光が、目の前の本人にあまりにも似ているのに驚いた。頬をやや削ぎおとして、暗い現像液からゆらっと表出したばかりの眼光である。
 「今度、生まれて初めて個展をやるのですが、何か書いてくれませんか」と頼まれて、とりあえず展示品の写真アルバムを送ってもらいひろげてみると、あるある、その時の自画像の目が、くいいってくるように私を見つめている。
 ゴッホの自画像もそうだが、慈愛の目じゃない。どんな悲哀の運命であっても、加担しよう、見てしまおう、だけど、いやいやだぜ。とでもいっているようにみえる。
 ピカソのように、顔の一部を視覚をかえて構成しているものもある。ピカソよりも自然だ。
観音像や地蔵像、夫人や娘さんの像になるとそんなくさみがない。レリーフなど技術の巧みが出つくしている。
 けれども、こういう一種の矛盾、これでもか、これでもか、と自分をえぐる、商品を度外視した作品に、森哲荘君との出会いを感じてしまう。天才の質というものは他に言いようが

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TESSO・イコン展

2008年に彦根市 スミス記念堂でおこなわれたTESSOイコン展です。



TESSO・イコン展
天使レリーフ聖母子像
スミス祈念堂(滋賀県彦根市)祭壇前にて
会場の様子会場の様子

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